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3: そろそろ日本の家(第一回)
▲ はじめに

近頃、「和風の家」が見直されているそうです。和風に古き良き時代を見い出し、現代にそれを取り戻そうとしているのでしょうか。日本人にとって、「昔風」と「和風」とではその意味するところは同じ物なのでしょうか。
若い世代の人たちの感じ方は少し違っている様です。彼らは明らかに、インターナショナルスタイルの消費型デザインに飽きているのです。その矛先が自然志向としての和、あるいは新しいデザイン様式としての和を連想させているのです。だから彼らの求める和風とは、モダンでかっこいいデザイの新様式であって、いわゆる本格的な昔からの和風とは確実に区別している様なのです。
昔の人がなつかしむ和風と現代の若者があこがれる和風では、同じ和風でも両者には大きな違いがあります。しかし、この変化の原因と意味を探ることによって和風の正体を浮き彫りにすることができます。和風の正体を探り、その本質的意味を分析してみると、そこには多くの幻想が含まれていることに気づきます。この古い幻想と新たに成立した今日的意味を入れかえることによって生み出されるスタイルはどのようなものになるのでしょう。私たちはそろそろ頭を切り換える時期に来ている様です。これから明らかにされる未来和風の様式が、将来の日本の住様式のプロトタイプとなるに違いないと私は密かに思っているのです。
▲和風を取り巻く3つの幻想
1)四季の風情
和風建築といわれてあなたの頭にはなにが浮かびますか。数寄屋の茶室や料亭の風景ですか?山間の民家の集落あるいは書院造りの武家屋敷等、人によって様々な和風建築のイメージを持っています。
おもしろいことに現代の若い世代の人は、和風建築といわれると畳や障子、床の間といった室内の風景、すなわちインテリアの和風記号ばかりが思い浮かぶらしいのです。つまり彼らにとって和風を感じる手がかりとは和風記号の存在であり、そこには日本独自の四季の織りなす自然という要素はすっかり陥落してしまっています。新世代のこのような傾向は、後で詳しく述べますが、全くやむを得ない事情によるもので、ここに和風の意味が大きく変化した理由のひとつがあります。
我々の現代生活の中には四季を感じさせる生活要素がほとんど駆逐されてしまっているからなのです。
本来日本の四季は、その気候風土が作り上げた最もオリジナルな日本的なる物なのです。この四季の移り変わりのリズムとそれに対応する生活様式は、近代までの日本人のDNAにすり込まれたに違いないと思われるほど定着したものでした。日本の文化的特質の成立背景にはこうした四季の移り変わりに見る自然観と、その四季に対応する生活様式がありました。ところが現在はどうでしょう。確かに今も夏と冬の気候の違いありますし、季節毎に衣服も食べ物も違います。しかし、それらはみな商品として誰もが同じように手に入れられるものです。それはインターナショナルスタイルとしてのシーズン変化にすぎないのです。
私たちはコンビニエンスストアに並ぶ商品と同様に、マーケットに対して戦略的に企画され生み出される商品を、漫然と消費して生活しているにすぎません。そのような商品サービスと消費構造の中で一見便利に成立している様に見える現代社会に四季の風情など感じる余地はほとんど残っていないのです。
このような社会変化の中、自然から切りとられた和風は記憶の中で記号化された表面デザインの一様式になりさがってしまったのです。 私はまだ40代の声を聞いたばかりですから、和風の本質を語る世代としては若手の部類でしょう。それでもまだ、和風建築を頭に浮かべろと言われれば、周辺の自然と一体となった風景として建物、あるいはまた季節毎の生活様式の風景が目に浮かびます。それはやはり子供の頃の住環境や生活に関する記憶の中に、四季の自然が入り込んでいるからです。自然のサイクルと共に生活の様式が組み立てられ、その生活の様式と建物のしつらえが密接にリンクしていたという体験をしていたからです。
その後、私の家族も団地住まいになりました。今考えてみると、この時を境に住まいは便利さと効率の追求によって造られるようになり、本質的な生活の豊かさとは違った方向に進んでゆきました。しかし当時はそれで便利になった、きれいになったと喜んでいたことも事実です。私だけでなく多くの人がそれを進歩だと感じて、歓迎していました。それはおそらくは人間社会の生長のステップというもので、このステップを経て初めて次のステップへと進歩してゆくことができるのかもしれません。失ってみて初めて日本人にとって四季の風情がどれだけ重要な物であったかを知ることになりました。
2)権威と格式の記憶
自然と共生した和風建築という見方ができる一方で、たとえば都会のテナントビルに組み込まれた高級和風料亭のような存在もまた、ひとつの強烈な和風のイメージを発信しています。

そこでみられる現代和風調インテリアの空間は、どうも敷居が高く堅苦しいものです。料亭に場違いな私のような一般庶民のひがみもあるのでしょうが、どうも落ち着かないのです。
和風から自然の織りなす風情といった要素を切り取ってしまうと、このように堅苦しい格式の空間になってしまうのは不思議です。実はここに、和風のもう一つの幻想が隠れているのです。それは権威や格式、規律といった伝統的な書院や茶室に由来する空間感覚であり記憶なのです。このような格式や権威が現代の家庭生活に意味を持たなくなってきた事が和風に幻想感を与えるもう一つの原因です。しかし一方でこの格式や権威に対するあこがれが根強く残っていることも事実で、私の世代よりひとまわり上の多くの人が、今だ実生活に状況に関わらず和室にある種の格式を求めています。
さてここまでに和風の幻想を生み出している基本要件を2点あげました。
もう一度整理してみると、
ひとつは四季の風情をなくしたコンビニ文化が蔓延し、商品を消費するだけで簡単に生活が成立していってしまう日本で、生活全般における四季のしつらえを発祥の源とする和風の家がそもそも成立するのかという疑問。
もう一点は、和風のイメージを形成している格式や権威は、これから将来に渡って意味を持ち得るのか、
ということでした。
大きく変化してきた日本の社会構造や人々の価値観あるいはライフスタイルが、今までの和風を意味のないものにしているのです。これらはいずれも建築そのものの問題ではなく、現代社会システムの問題、あるいは住み手の精神の問題と言うことができます。世の中のシステムを昔に戻して、昔の和風を再現するか、今のシステムを受け入れて、新しい和風を目指すか。我々日本人は重大な岐路に立たされている状況のようです。
3)自然素材と技能労働
ここにもう一つの大きな幻想があります。これは建物自身に関わる問題です。それは和風素材、つまり木と土という伝統素材とその料理法に対する思いが生み出すものです。木と土という自然素材を、技能者の知恵と創造力、そして大きな労働エネルギーを投入して作りこんでゆくような伝統型生産様式が日本にはほとんどなくなってしまったのです。さらにまた、都市の運営維持に不可欠なさまざまなルールや法的規制も、伝統型の和風建築を拒絶する姿勢を取っています。このような現状に全て対抗措置を講じながら昔のやり方にこだわるべきなのでしょうか。或いはまた、上辺だけの和風を模倣することでまあ良しとするべきなのでしょうか。このあたりのジレンマがまた和風の幻想を作っているのです。

このように多くのな幻想に囲まれていては、和風のあるべく姿など簡単には把握できません。幻想に幻想をを重ね、フワフワと意味もたずに浮遊しているのが現代和風のおかれた現状なのです。毎朝新聞の折り込み広告にあるマンションや建売り住宅の間取りをみると、必ずひとつ和室がくっついています。あの部屋はいったいどのように使われているのでしょう。生活のイメージが全く見えてこないのです。ただ日本人の家にはとりあえず和室がひとつはなければならないと皆が思いこんでいるのです。
この「とりあえず和室」は和風の非常に表面的で安っぽい切り売りであり、今だにそれが何の疑問も持たれずに世の中に蔓延しているのは、日本人がこの和風の幻想にすっかり惑わされ、もう考えること自体を放棄してしまっているからなのです。だからこそ日本人は本質的な住まい観の構築が今だにできず、マーケット戦略によって生み出される大量生産型商品住宅を選ぶことしかできないでいるのです。家までコンビニショッピング的に消費されるようになれば、そこで生活する人たちにとって和風の本質はさらに風化してゆくに違いないのです。
